2009年11月16日月曜日

Freemiumを一過性のブームにしてはいけない

tadateruです。

Freemiumjpのキャンペーンを体験して思ったことだが、個人的にはまだ内容がAuthorizeされていない書籍が無料になったところで大して響かないと感じた。
自分にとっては書籍とは、知人や上司か本屋がすすめてくる時か、本当に知りたいと認識している内容が含まれていることがタイトルでハッキリと分かる時に初めて買ったり読んだりするものだった。

個人的な習慣はさておき、1万人限定キャンペーンはFremiumの正統なアプローチと呼べるかどうか疑問である。


◆freemiumjpに感じた違和感
私が最大のミスだと思うことは、NYのベンチャーキャピタリストFred Wilson氏の発見である「最初に無料で利用できるものは、いつも無料で利用できること」のルールを破っていることである。(
B3 Annex 「Free + Premium = Freemiumというビジネスモデル」) それを破るのはどういうことかというと、ただの時限DRMコンテンツにしかならないということだ。それだけでオリジナルのサービス・製品よりも著しく劣化している。期間限定で急かされたり、時間をかけて読む・後から参照するといった"利用の継続"にお金を払わなくてはいけなかったりするのは果たしてFreemiumと呼べるのだろうか。ただの「立ち読みで済ます行為」や、従来の無料サンプルモデルと変わらないのではないか。このキャンペーンにFreemiumのFree+Premiumという重要なアイデアのうちPremium的な要素は無い。
また、Freemiumjpの無料配布1万人突破はtwitterの話題伝播性によるもので、twitterの力を改めて示しただけである。一体1万人のうち何人が、DRMの締め切りまでに望ましい効用を得られるのだろうか。最後まで読める人や本書をフリー期間だけで活用できる人はそんなに多くはないだろう。
結果として、大勢の書評ブロガーに大量献本したつもりが、大勢の大して読みもしない話題に飛びついただけの人に配っただけになってしまっていないだろうか。


◆代金だけがコストじゃない。可処分○○を探せ
ところで、ふつうの人にとっては、新しいサービスや製品を試してみることも「コスト」だ。
自分自身の時間や意識を消費しなくてはならないし、どんなものも利用には新しい学習が必要だ。
「このサービスには特別な学習が必要ない」という評価でさえ、金銭的・時間的なコストを支払った上での利用と学習によってなされる。
「ふつうの人」と言ったが、どんな人でも人によって手持ちの資源比率が違い、どれを節約したいかが異なる。ある資源を出し渋る人に対しては、その資源のコストをゼロに近づけてやれば心理的な障壁が取り除かれやすい。
たとえば金銭コストをゼロにした時に飛びつく初期の導入者は、金銭資源を出し渋るとしても、新しいものを試す際の時間的資源やその他の心理的な資源は出し惜しみをしない。彼らは口コミや話題や評判を作るのに一役買い、時間的資源やその他の心理的資源を出し惜しみする後期導入者の資源を節約するわけだ。これはある意味では消費者側で起きている分業である。多くのWEBサービスでFreemiumが採用されているのは、限界費用がゼロな事に加えて、初期導入層のポジティブな評価に他の層の時間的/心理的資源節約の効果があるからだ。後期導入者は色々試している初期導入者のAuthorizationがあるから安心して利用を開始できるし、本当に価値のある製品/サービスだと分かれば初期導入者だろうと後期導入者だろうと出し渋らずに金を出す。
このメカニズムの対極に位置するのはブランド志向というやつで、金銭コストは大きいが、良いものを見つけられるまでの心理的資源や時間的資源をあらかじめ節約することができる。

Freemiumは価格が無料であることばかりに目がいきがちだが、逆に金銭以外のコストをはっきりと認識する必要性があることを我々に気付かせてくれるだろう。
さもなくば、「Freemiumを導入して無料にしてみたけど結局利益が上がらなかった。あれはダメだ」という、企業の担当者にありがちな失敗が増えるだけだ。
金銭以外のコスト/資源としてすぐに考えられるのは、時間のコスト/資源と、学習や努力のコスト/資源である。可処分所得、可処分時間はともかく、「可処分努力」という言葉が正しいかどうかは分からないが、どんな経済活動にもお金と時間と精神的なエネルギーが要る。
仮に、金銭、時間、努力の3種類のコスト/資源が重要なファクターだとするならば、2×2×2で、消費者をざっくり8層に分けることができる。たとえば時間もないし努力もしないけどお金だけはタップリ持ってる人、時間だけはあるけど努力もしないし金もない人…といった具合だ。8層それぞれの層の特徴や影響力の矢印の方向を見いだすことで、どの層にとってのトータルコストを下げることが最も効果的に全体のコストを節約させられるかという資源配分の問題を解くことができる。Freemiumはサービスの単価と影響力の方向とそれぞれの層の人数や人口分布が一定の時に有効な1つのパターンにすぎない。世代が変われば違う結果になる可能性がある。


◆なんだかんだ言ってもバズワードなんだから慎重に
そもそも、WebサービスにFreemiumが多く採用されはじめた理由は、誰かの手探りマネタイズによるまぐれ当たりを模倣しただけのものである場合や、利用者層が似ているからうまくいっているケースも多いはずだ。大元を辿れば、始めから課金したらユーザーからそっぽを向かれたという経験に基づく課金モデルであって、包括的な分析が伴っているものは実は少ないのではないかと察している。というか、基本的にはweb2.0の時と何も変わらず、WEB業界のマネタイズの慣習や流行にFreemiumと名前を付けただけである。
別にそれ自体は悪いことだとは思わないしネーミングは流行を増幅するが、ネーミングが独り歩きした結果、思わぬ落とし穴が待っているものだ。なんと言っても、クリス・アンダーソン公式のはずの日本初"Freemium"イベントがFreemiumの性質を備えていなかったことはあまり笑えない。

極端に聞こえるかもしれないが、Freemiumはジレットのカミソリのビジネスモデルやプリンタのインクで利益を稼ぐモデルと根本的には大して変わらないと考えてよい。
限界費用の低下とネットワーク効果により、無料会員でも維持し続けるメリットがデメリットを上回り、コストの比率と課金の機会をさらに極端に設定できるようになっただけである。


◆Freemiumの今後?
もちろんFreemiumは今後いっそう話題になっていくかもしれないし、WEBだけでなく実世界にもFreemiumの波がやってくるだろう。だがFreemiumを一過性のブームにしたり過度に期待しすぎたりしてはいけない。適切なマーケティングの手法と未知の有用なパラメータ収集の機会をみすみす逃すことになる。値段の高さや品質の悪さだけが購入の障壁ではないことは、良いものを作ったからといって売れるわけではないという経験が示している。一方でコストのようなネガティブな指標だけでなく、「楽しさ」や「自慢できること」など、従来無視されてきたポジティブな指標の重要性も明らかになってきているが、数値化しにくいためにまだ得体が知れないままである。長期的に見て重要なのは、個別のマーケットにおいて金銭以外のコスト/資源の関与度を明らかにすることである。



andvert君によるfreemiumの再掲記事に対するレスポンスとして。



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